本質を見ぬく眼とは
「ねえねえ、おじいちゃん。眠れないよ。いつものあの本、読んでよ。」
「仕方ないねぇ、じゃあじっとして聴くんだよ。」
───ある荒廃した村があった。
その村に住む人々は、恵まれた土地、住処こそは無いものの、皆仲が良く、争いもなく、利口で真面目な人々が多かった。
ただ変わらない日々を過ごしているだけで幸せだった。
ある日、その村に、若木が芽生えた。
村の人は言った。
「ああ!荒れた地でもこんな綺麗な木が生えるのか!」
世話好きな村人は若木の世話に生活を費やすようになった。
村人の念入りな世話を全身に浴びて、若木はすくすくと育っていった。
育つにつれてその木はより一層村人たちの目を引くようになっていった。変わらぬ日々を送る村に、その木はまるで『非日常』を魅せるようであった。
元から村に生えている木や植物は、養分や自身を手入れしてくれる人が、その木に全て吸われてはしまわないかと不安を浮かべるようであった。
より多くの村人が木に集まり、手入れをするようになった。木は不思議なことに、手をかけてくれる人が増えれば増えるほど大きくなっていくのだ。
村の長老は言った。
「この木はやがてただ1つの木の実を宿すだろう。その木の実はこの世のどんな宝石のよりも美しい。しかし木がその実を失ったとき、木は枯れ、村に災いが訪れるであろう。」
気付けば木は、葉と枝を大きく伸ばし、村の中心部を覆うまでに成長した。
長老の言葉を信じる者と信じない者は半々であった。
信じない者は、その言葉を信じなくても木のそばにいるだけで幸せだったのだ。照りつける日差しは遮られるし、雨だって凌げる。こんないい場所はない。木を感じていられればそれでいい。
しかし、その言葉を信じる者は木によじ登り、その宝石のような木の実を一目見ようと、その巨大な木の枝をつたって探し求める。中にはその木の実を奪ってしまおうとする者もいた。
信じない者は信じる者をひどく蔑み、村に初めて争いが起きた。
『この木は村に争いをもたらすためにやってきた。』
そう言い、木を気味悪がって離れるものも出てきた。もとの村に戻ってくれよ、とその背中は語るようであった。
しかし一番争いが過激だったのは、言葉を信じて木の実を探す者同士であった。
木の実は1つしかないのだ。一緒に探そうったって、一目見たいだけだと言ったって、いつ裏切られるか分からないからだ。
村は大きく分裂してしまった。
やがて、時が経っても木の実を見つけられる者は居なかった。
木の実を探す人々は減り、木によじ登る人はいまやほとんどいない。たまに噂を聞きつけてきた別の村の者が登ろうとするくらいであった。
長老の言葉は本当だったのか?真偽は定かではない。
その木の実がまだ宿っていないだけなのか…
宿っているが本当に見つかっていないだけなのか…
それとも「どんな宝石よりも美しい」という言葉は偽りで、人々の目には入らぬような木の実を宿しているのか…
今では、村は争いを忘れたが、木の近くを通る度に、思い出したかのように枝に視線を向ける者は少なくない。
木の実を手にする人は、現れるのだろうか───
「本当にこの"オタサーの姫"っていう本は面白いね、おじいちゃん。」